ミュージカル「エリザベート」では、王妃エリザベートが「光」とするならば、「影」は、王妃に付きまとうトート(死神)であった。トーとは、エリザベートの心象風景としての自殺願望であったかも知れない。
ミュージカル「モーツァルト」では、人間モーツァルトが「光」とするならば、天才アマデ(アマデウス・モーツァルトが天才の子どものまま成長しない姿)が言わば「影」であった。
ミュージカル「レベッカ」では、「影」であるレベッカは、舞台に登場さえしない、まさに『影』であった。(日本未公開。ウィーンで、2007年1月初演を鑑賞)
これら三つのミュージカルは全てウィーン発ミュージカルとして、大成功したものであり、
シルヴェスター・リーヴァイとミヒャエル・クンツェの手にになる。
今日、博多座で、「レ・ミゼラブル」を観た。
「レ・ミゼラブル」は、この博多公演で20周年だというが、私は、20年前の初演の大阪公演を「飛天」(現・梅田芸術劇場)で見た。
また、2004年1月の博多座公演も見た。
この20周年解説パンフは、通常の二倍ほども分厚いもので(2000円)、以下のように書かれている。
【「レ・ミゼラブル」をきっかけに、非常にシリアスなテーマと重厚な構造を持つミュージカルがいろいろな国で誕生するようになった。】とあり、
また、別の項では
【全ては「光と影」からなるというユゴーの二元論的な思考法から導き出される作劇法によるものです。】 とある。
そして、ユゴーの次の言葉を紹介している
【人間の真の区別はこうである。輝く人と、暗黒の人。暗黒の人間の数を減らして、輝く人間の数をふやすこと。それが目的である。教育!学問!と人々が叫ぶ理由はそこにある。読むことを学ぶことは灯りをつけることである、拾い読みしたすべての綴りが、光を放つのである。】
「レ・ミゼラブル」の精神はここにある。
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さて、舞台は【日本の自民党総裁選挙】である。
「光が強ければ強いほど、影の部分も濃くなる」
と総裁候補者がしたり顔で語る。
これだけ、聞いていると、いかにも日本社会全体に強い「光」が当たり広がったかのような錯覚を聴く人に与える。
もちろん、候補者は、そういう錯覚(影)が広がる(Die Shatten werden langer)ことを期待しているに違いない。
しかし、強い「光」が当たったのは、一部大企業と高額所得者だけであり、広がりは全く無い。
勤労者の実質給与は、大企業が史上最高の経常利益を上げている中でも、年々低下している。
社会福祉に回すとして導入されて久しい消費税は、大企業減税の元手として使われ、社会福祉は後退する一方。年金は流用どころか、横領までが広がっている。
汗水流して働く庶民には全く光が当たっていないというのが実情である。
総裁選での彼らの甘言に騙されてはいけない。

『光』と『影』の人たちの収入比較

『光』の当たる人たちへの減税

『光』の当たる人たちの経常利益や収入の増加

『影』の人々の賃上げ急速下降状況

『影』の人々の不安定雇用形態
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