私なりに印象的に思ったところを要約しての抜粋の【続き】です。
今回は【アメリカ国務省】の日本部長との会談の概要です。
適宜改行と文字強調は、引用者による。(J)
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「赤旗」記事 では、後半・三分の一位のところ。
「無条件撤去しか解決の道はない」
―― 米国政府に伝える(5月7日)
私たちは、5月7日午後、米国務省で、ケビン・メア国務省日本部長、多国間核安全部ジョナサン・サンボア氏と会談し、核兵器問題と日米関係についての日本共産党の立場を米国政府に伝えました。
核兵器問題についての意見交換について
まず私は核兵器問題についてのわが党の立場を伝えました。NPT再検討会議にたいするわが党の要請文を渡し、ニューヨークでの私たちの活動の概要を話しながら、二つの要請点をのべました。
私は、この問題については、
「米国政府と私たちでは、核兵器問題でも立場の違い、アプローチの違いはあるが、
『核兵器のない世界』をめざすという点では、大局的には米国政府と協力が可能だ
と考えています」と話しました。
米側は、
「日本共産党はずっと前から核兵器のない世界をめざしています。具体的にどうするかは立場は異なりますが、目的は同じだと理解しています」
と応じました。
沖縄問題と日米関係について何を語ったか
つづいて私は、日米関係、沖縄問題についての日本共産党の立場を、米国政府に伝えました。もとより、日米安保条約にたいする評価など、現在の日米関係のあり方については、日本共産党の立場と米国政府の立場は、根本的に違います。しかし、どんなに立場が違っても、否定できない事実と道理はあるだろう。それを冷静に、諄々(じゅんじゅん)と、外交的節度を保ちつつ、しかしきっぱりと米国政府に伝えよう。私たちは、こういう姿勢で会談にのぞみました。
私は、「もとより私たちは反米主義ではありません。米国の独立革命、民主主義の歴史に大きな敬意を持っています。その観点から、私たちの立場を率直に伝えたい」とのべて、つぎの諸点を話しました。
一つは、沖縄の情勢と問題解決の道についてであります。
私が話したのは以下の諸点であります。
――「沖縄問題をめぐる情勢の特徴は、一言で言うと、普天間基地を返還する代わりに、別の場所に『移設』する方針が、完全に破たんしたということにある」こと。
――「4月25日に、9万人が集って県民大会が開かれ、『普天間基地閉鎖・撤去、県内移設反対』という島ぐるみの総意は揺るがぬものとなった」こと。
――「5月4日、鳩山首相が沖縄を訪問し、『県内移設』という方針を持っていったことが、県民の怒りの火に油を注ぐことになり、沖縄県民の島ぐるみの団結をいっそう強固なものにする結果となった」こと。
――「私は、4月21日にルース大使と会談したさいに、『沖縄の情勢は決して後戻りすることはない限界点をこえた』、怒りが沸騰点をこえたとのべました。『ポイント・オブ・ノー・リターン』ということです。私たちの判断は、『県内移設』という方針では、絶対に解決は得られない、県民の理解を得ることは絶対に不可能な、展望のない方針だ、ということにある」ということ。
――「米国政府は、『地元合意』がないところには基地はつくらないことを原則にしているというが、いまは沖縄県内はもとより、日本国内のどこにも、『地元合意』を得られる場所はない。普天間問題の唯一の解決の道は、『移設条件なしの撤去』、すなわち無条件撤去しかない。これが私たちの見解だということを、米国政府にお伝えしたい」。
私のこの提起にたいし、米側は、
「日米安保条約に基づく米軍の存在は、日本防衛と極東の平和と安全に貢献しています。
海兵隊の存在は抑止力として重要です」
との立場をのべました。
私はこう反論しました。「『抑止力』という言葉は、沖縄ではもはやまったく説得力を失ってしまっています。『抑止力』というが、沖縄の海兵隊が実際に展開しているのは、イラクであり、アフガニスタンではないですか。普天間基地の海兵隊は、1年のうち、半分は(海外に展開して沖縄には)いないのです。これでどうして平和を守る『抑止力』なのか。これらの疑問にこたえる説得的な説明はなされていません。また説明することはできないでしょう」
私がもう一つ、米側に伝えたのは、沖縄がこうむってきた歴史的苦難であり、いまの局面を歴史的視野でとらえることが必要だということです。
私は、「沖縄県民の怒りの根源には、凄惨(せいさん)な地上戦を体験し、占領時に土地を強奪され、戦後65年にわたる基地の重圧のもとで、痛ましい事故や事件が繰り返されてきた歴史的な怒りの累積があります」とのべながら、「ここで一つ、歴史(の教訓)について考える必要があります」として、つぎのように米側に提起しました。
「かつて、1969年、日米両国政府は、沖縄の施政権返還で合意しました。これは、沖縄と日本本土の大きなたたかいにおされたものでした。
このときの決断は、沖縄の施政権を放棄したサンフランシスコ条約第3条の壁を越えたものでした。条約上は不可能なことを決断したのです。
私たちの判断は、同じような決断が求められる歴史的岐路に、いま日米関係が立ち至っているということです。
私は、情報公開された、沖縄返還にいたる過程での米国の国務省、国防総省、在日大使館などが交わした関連公文書をすべて読みました。そこには、国務省と国防総省との激しいやりとりがあります。そこに出てくるのが、『ポイント・オブ・ノー・リターン』という言葉です。
国務省側がそういう判断をして、返還にいたりました。いまはまさに、そういう歴史的岐路に立っているというのが、私たちの判断です。
沖縄の県民大会では、こういう発言を聞きました。普天間基地を抱える宜野湾市長の発言です。
『もしも県内移設を強行するなら、沖縄からすべての米軍基地の撤去を求めることになるだろう』という発言です。
嘉手納町の町長は、私との会談で、『日米安保条約の是非そのものを考えなければならない』とのべました。県民の怒りがここまで深いものになっているという、この事実を直視する必要があります。
日米安保条約の問題でも、海兵隊の『抑止力』の問題でも、(米国政府とわが党は)立場が違います。しかし、県民の合意が絶対に得られないということは事実です。この事実を直視しなければなりません。事実を直視すれば、無条件撤去しか解決の道はありません」
おそらく、米国政府が、アメリカの地で、日本の国会議員から、正面切って、沖縄県民の声がどこにあるかを聞いたのは、これがはじめてではないかと思います(拍手)。
だれもそれを伝えようとしなかった。日本政府も伝えていません。
私は、4月25日の沖縄での県民大会に参加し、その場でも、「基地のない沖縄」を願う県民の痛切な思いを、肌につきささるほど感じました。それをそっくり伝えるのは日本の政治家としての重大な責任と心に刻んで会談にのぞみました。
一つひとつ言葉を選びながら、ともかくも沖縄県民の思いの一端を伝えることができて、一つの責任が果たせた思いであります。(拍手)
立場が違っても意見交換を続けることが確認された
この問題では、立場の厳しい対立は、もちろん最後まで続きました。同時に、私は、米側の対応として、1時間15分の真剣なやりとりをはさんで、担当者が最初にのべた言葉と、最後にのべた言葉は、たいへん重要だ と聞きました。
最初の言葉はこういうものでした。
「ようこそ国務省へ。お会いできて光栄です。時代は変わりました。これまで日本共産党との接触はありませんでしたが、日本共産党は日本の公党です。意見交換をすべきです」
そうして、厳しいやりとりがありました。
最後の言葉は、先方からのもので、
「見解は違っても意見交換するのは有益であり、民主主義の基本です。これからも続けましょう」
というものでした。
私も、
「それは重要なことです。民主主義の基本ということについては、全面的に同意します」
と応じました。
そしてこの会談の直前に、私たちが、「リンカーン記念館」を敬意をもって訪問したことを伝えました。
有名な「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーンのゲティスバーグでの演説が、壁に刻んである記念館であります。合衆国の民主主義の歴史的伝統への敬意を私が話しますと、米側は「ありがとうございます」と謝意の言葉をのべました。
こうして、立場は違っても、意見交換をしていく、米国との話し合いのルートが第一歩ですが開かれたことは、今後にとってきわめて重要だ と考えるものであります。(拍手)
<引用おわり 文字ばかりで読みづらく申し訳ございません>
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テーマ:核・核兵器・核拡散防止 - ジャンル:政治・経済